こんにちは。
秋の季節になると、
学校に近い職場や家にいる人は
「運動会の練習風景」が見えちゃう人がいるかと思います。
私もオフィスの近くに小学校があるので、
音楽と子供たちの「やー!」みたいな運動会の練習の音が
聞こえてくるのですが、
なんでいまだに運動会なんてやってるんだ!?
と思いますね…
私が小学生だった15年前とほぼ変わらない内容でずっと練習してるわけですよ…
音楽ならしてみんなで踊る…
タマ入れ、徒競走…
いらないだろあんなの!!
私は小学生の頃から本当に運動会が嫌いでした。
運動会の練習に1,2か月とか費やすわけじゃないですか。
面白くもなんともないのに。
なんで、教師が勝手に決めた音楽と、教師が勝手に決めた振り付けで
踊らされなきゃいけないの??
っていうかやりたくもないこんな踊りの練習をなんでやらされてんの?
とか結構反発しながら練習してた記憶があります。
運動会と運動会の練習は私にとってストレス以外の何物でもありませんでした。
し、もはやもう時代にも合ってない。
必要のない負の産物。
運動会不要論。運動会はもういらない!
■運動会は時代遅れ。不要。それに数か月も練習時間に費やす害悪
そもそも運動会の歴史ってなんなんだろう?
と思っていろいろと調べてみると、
一番このページがよかったかなぁ。
学校における運動会開催は今と当時では当たり前のことだけど、全然意味合いが違います。明治時代当時は遊びにもなる基礎訓練の1つとして導入されたものであり、その狙いは当然優秀な兵士育成です。
現在においては上記のような意味は薄れており、ただ「勝つ」事と言う意味合いすらも薄れつつあります。
現在の運動会の狙いは協調性を養うために開催されることが多く、個人技で戦う徒競走などはそれほど重要視されず、有名アーティストの曲に合わせたダンスの披露や単調な運動に重きを置くようになっています。個人技ではどうしても能力差が出てしまうので集団運動を多めに取り入れるようになったと言われています。
運動会をやる意味は、
・もともとは兵士育成、全体主義を浸透させる方法の一環だった
・もちろん今は兵士育成などしないので、「協調性を高める」目的で行われている
・昔は「個人の順位」を競うものもあったが今はもう「協調性を高める」の一点
・親御さんに子供たちの元気な姿を見せる
これくらいでしょう。
・・・
いやいや、だったらもう、運動会なんていらないじゃん、
だってさ、
・協調性を養って得することはもはやこの社会では少ない
・元気な姿を親御さんに見せる方法は運動会以外にもある
という点で運動会なんてやる意味はもう全くないと思うんですよ。
というか、
・こんな意味のない運動会のために1か月も2か月も学校の時間を使うという害悪
これもあるので、運動会は今すぐにでも撤廃すべきでしょう。
■全体主義最適化脳の大人が、全体主義最適化脳じゃしんどい子供たちに運動会を押しつけることの気持ち悪さ
運動会なんてものどう考えてもさっさと撤廃すべきなのに、
なんでいまだに馬鹿の1つ覚えみたいにやってるんでしょうか?
北朝鮮の兵士たちの行進をみて「気持ち悪いな」と思うでしょ?
あれと同じ気持ち悪さを覚えるべきなんだよなー…運動会って。
結局、
・みんなととにかく協調すべき
・いい部分を伸ばすのは後回しで、みんなと強調できる悪い部分をなくそう
・個を殺してとにかく全体のために!空気を読むのがいい!
このテの「全体主義最適化脳」を作るための、戦後昭和~平成の日本教育で
育った大人たちが教師になり、そんな大人たちが、子供たちに運動会を
教えてるわけですよ。
こんなの意図してないと思いますけど、私の目には、
教師たちが子供に、
・おまえらも俺らと同じ脳になれ!!!!!
空気を読め!!!個を殺せ!集団のために動け!!
と運動会を使って洗脳してるようにしか見えません。
これからの時代、個を出さないと、どんどん平均化の波にのまれるよ…
でも「全体主義最適化脳」になってると、「あ・・・おれ今平均化の波に
飲み込まれてる」ってことにすら気づかない。
むしろ「みんなと同じで安心💛」とか思っちゃう…危険すぎるぞ!
■学校は子供たちの個々の得意分野を伸ばすために最適化された「マッチングサービス」であるべき。個々の能力を伸ばす「教育サービス」は外注する時代だ。
結局、この運動会不要論は、
「今の学校のあり方が時代に合ってない」
ことから派生した議論の1つに過ぎない。
学校自体がもう時代遅れなのだ。
教育課程にそってみんながほぼ同じ学習を行う現状。
でも学力を伸ばしたい子供たちの多くは、学力向上を
学習塾に外注しているではないか。
こうなるともう、
学校はもはや、もうマッチングサービスであるべきであって、
教育を提供するサービスでなくていいだろう。
学校には価値がある。それは、教育機関という社会的信用だ。
学校がやるのであれば…という理由で補助金や、公的施設等も利用しやすい。
それら学校の信用を利用して、子供たちに与えられるさまざまなチャンスを提供してあげる機関であるべきなのだ。
もはや、教育という点ではもう、学力を伸ばしたい人は学習塾へ外注、
特別な身体能力を持つ子供はそれぞれのクラブへ外注しているではないか。
でもこれは今のところまだ「親の年収の高低」に左右されている。
親の年収が高ければチャンスをつかみやすいし、低ければつかみにくい。
その部分を学校の信用を利用して、親の年収が低くても「最適な能力を伸ばすためのサービスへ外注できる」ためのマッチングサービスを提供するのが学校でいいのではないか?
そういう意味では「教師」はもはや「教える師」ではなく「子どもの能力を伸ばす何かをつなぐエージェント」であるべきなのだ。子供たちが持つスキルにおいてそれを専門的に教える教師は外注するほうが絶対にいい。学力ならば学習塾の専門の講師、スポーツなら元プロスポーツ選手のジム、
プログラミングならばプログラミングを教えるのがうまい専門学校へ。
学校で使う時間を減らし、学校に投入されている様々な公的資金を、
そういった外注費用に回してあげるほうが子供たちのためになる。
特にやりたいことがない子は、別に学校にいればいい。
その間学校では映像授業でも垂れ流しておけばいいだろう。
だからもう全体主義的発想の遺産である運動会とか、もっと言えば夏休みの宿題とか、ああいうのももはや必要ないのだ!
夏休みの宿題なんて、私はまともにやったことなど一度もない。
でも、今楽しく生活できている。
ちょっと最後は話が膨らんだが、
運動会はもういらない!!!!!!!!
絶対行かないんだからね!!!!!
本日はここまで。
最後までお読みいただきあざましたー(*´з`)
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